Home

週刊誌記事

名簿

星座の会

15周年記念
の思い出

35周年記念

なつかしの写真集

    大瀑布への招待 

       川崎 武彦

  来伯十五年、仕事の性質上皆様到る所へ出張されて様々な経験をされたと思います。この機会を利用して私の経験の一つを紹介しましょう。一九七九年五月にロンドニア州の州都てある

ポルトベーリョヘ出張しました。アマゾン河のー支流てあるマデイラ川に面した州都て小さな街だが此の地方の人類未踏地開拓の中心地として若者が多い活気に満ちた街てす。焼畑農業や開墾のため

連日到る所てジャャングルが焼かれて、真黒な煙が龍巻の様に天空に昇って空を黒く染めており、その良否は言えませんが将来が心配されます。街の近くには日本人入植地が在り主に野菜を作ってい

ます。当地に来て最初に見物に行ったのがマデイラ川の大瀑布チオトーニオで、五月の増水期でしたので干米近くの川幅一杯に大水量の激流が到る所に白波や飛沫を上げながらゴオーと大音響を轟

かせつつ流れ落ちており、 その勢いが下流の水を長く切り裂く迫力は鳴戸の渦潮の比ではありません。海より二千キロ以上も離れた陸の奥地で、こんなスケールの大瀑布を観れるとは考えてもおら

ず、只見とれているのみでした。此処の住民は急流上に延ばしたヤグラの先端に座り、釣針付きの竿を持って根気よく水面を見詰て居り、激流を避け岸寄りの水面上を遡るビンタードを一瞬の間に捕

ってしまいます。その名人芸を見逃すまいと水面を見詰る私は、ヤグラを両手て持っても流れにヤグラごとに吸い込まれそうで恐ろしくなり断念。話しでは乾期のため川の水位は七月頃より下り始め、九

月の最盛期には二十米下がるとの事、目前の大水量を見る私にはとても想像出来ません。九月に入るとチオトニオでの釣話が良く聞かれ我々局で働く連中も早速飲食物を揃えて車で早朝に出発しま

す。小一時間デコボコの悪路を腹が捻れる程揺られ又埃を頭から被り体中黄色くなるが期待感と友人達のサンバのリズムに気分が高揚させられいざ突撃と言った心境で苦にもなりません。遂に到着、

川を一望して余りの変貌に只唖然、あの轟音も無くなり川は岩山のみ。到る所に大小の滝が出現しており、その水がーケ所に集まって川幅百米の激流に変っているのみです。 釣り場迄行くには陽に

焼けて火傷しそうなつるつるの岩山を、右へ左へ或いは登り降りしながら二十分以上歩行しなければなりません。釣場での要注意は足元の水流です。激しく渦巻く川の中央へ吸い込まれており、その為

に此の時期には二、三人の水死事故が毎年起っているとの事。そこで釣り始めの注意は、手袋使用(出来れば皮)、釣糸を掌巻きにしない、残り糸は足元より離し、魚に引き込まれそうなら手を離し、足

場は十分安全な場所を選ふ事です。これは私が選んだ釣る方法つまり三叉の釣で餌を付けず魚を引っ掛けるためです。 足場を再確認して激流の落ち込み渦巻く川の中央へ釣糸を投込みます。底

に沈んだ頃にグイと手元へ引くと遅くとも四、五回で何かに当った手応えと同時にククーと強烈な引きが来て今にも引き込まれそうになります。手袋を使用しても指は痛み糸先はピリビリ震えながら右に

左にと動き廻り、前に強く引かれてヒヤリとする時も度々有るが出来るだけ後に全体重を掛けて、耐えて待っていると抵抗が弱まり魚が水面にに現れます。約一米のピンタードが私の格闘相手でした。

時々針が折れる時も有るが、針の大きさを考えると魚の大きさは想像つきません。水面より岩場迄この獲物を引き上げる時、腕には今迄の戦いの名残りと掌には糸を通した敗者の重量がズシリと掛り

ます。魚には悪いが巨大で苦労する程に釣りの醍醐味は増し、それに獲物を前にして針を外す時の満足感...最後に行った日の戦果は二十匹のピンタードと不味そうで水に戻した種々な小魚(三十

センチ以上)合計すれば四、五時間で約三百キロは有りました。 友人と二人で流木にピンータードを
下げ、重過ぎるので肩を左右に替えつつ岩場をふらふらして戻ったのを稿を書きながら思い出してお

ります。しかしこの釣り方では釣れ過ぎてすぐに倦んで来る。そこで瀑布見物をしましょう。釣っている人は多いのですが場所が広いので何んとなく閉散として、激流の音のみが川に響き渡り、時々大物を

釣った人の歓声がこの音に混じっております。川も三十秒間隔で水が増減します。魚はこの増水時を利用して急流を遡り、減水時は小さな岩陰でじっと次の増水を待って又次の岩陰へと順次進みつ瀑

布を遡るので、激流の岸辺では大量な小魚が列なっており、いとも簡単にこれを手掴み出来ますが誰も見向きもせん、皆ピンタードを狙っているのです。私がこの流れに足を入れるとその足陰にも小

魚の列が出来足を外すとこの列の魚は折角此処迄登って来たのに全て元へ戻される様は何となくユーモラスを感じさせられて 一人ニヤニヤしたのを思い出します。急流の中央では短気な魚なのでしょ

うか一気に遡りかかるが、長い激流の為に大部分の魚が元に戻されておりその落ち□には大量の魚が群がってしまい、渦に揉まれて時々雲の様に水面上に姿を現わして水の色を変えます。小さな滝で

は、同時に何匹もの小魚がピョーンピョーンと飛び上がって滝を登るのが見られ、 滝に面す岩場にて袋広げて居れば、いくらでも魚の方から飛び込んで来るので一時間も居れば百キロは獲れるでしょ

う。 小魚の跳躍を見ていると色々と方角が違っており、待てよ、野球の打撃練習にもつて来いだ。真中の球、左右高低の球、外に逃げ内懐に入る球、浮き沈みする変化球、おっと死球ウーンこれは痛

い。瀑布の下流では、イルカの様な魚が呼吸する為に時々姿を水面に現わしブシューと音を立てつ
つ水を吹き上げるのが見れます。釣られたその魚が水中にて、洗濯物干しのナイロン紐でえらを通さ

れているのを見たが、大きい大きい、約百キロはある。どうして釣り上げたのか、御苦労さん。約二ケ月間、連日連夜遡る魚の量、想像出来ますか...?アマゾン河の一支流、その又一つの瀑布にてこ

の状態、アマゾン河の巨大さの表現など何をか言わんやと云った所でしょう。大自然の奥深く入り、その片鱗を覗いた事を書きました。最近、乾期には此処で砂金が採れると聞いております。残念....

写真をニ葉併せ載せます。一つは激流の落ち口で増水時には見えている岩山全てが遥か水の下となります。他のは初日の釣り戦果。私に暇と金が有る時なら、希望者を招待します。


観光旅行のつもりが

清水 晴司

  今から十五年程昔のこと、総勢七五名にものぼる日本人技術者がブラジルに移住してきた、そして彼等全員がアメリカ系の会社、スタンダード・エレートリカ社で勤務し、ましてや日本での収入の約三

倍もの給料が支払われるという日本人海外移住史上に大きく書き残される出来事が起きたのである。ところが幸か不幸か、実はいつのまにか私もその一員に加わってプラジルに来てしまっていたの

である。気が付けばそこは、フロリダ・ホテルの一室であった、窓の外から聞こえてくる強烈なサンバのリズムに目を覚したのである、それは私が想像していた以上に楽しいブラジルを印象付けるもので

あった。なんだかおかしな書き出しになってしまいましたが、私がブラジルに来たのは決して移住を覚悟して渡伯したのではありません、若さにまかせての一種の冒険旅行と出稼ぎとを兼ねたー石二鳥

の考えで乗り込んで来たのです、もちろん、このような考えでいたのは私だけではなく大半の者がそうであったのではないかと想像します、特にいつでも自由のきく身の独身者には仮に何が起っても、『ま

あ何んとかなるだろう』という気があったと思います、そして明けても暮れても、『なんとかなる』の考えでいたら、いつの間にか十五年の歳月が立っており、今では二人の子供のおやじになってしまってい

た。自分が子供であったころ寒空に鼻水をたらして、近所の子供達とビー玉遊びに明け暮れていたのが、ほんのこの前のように思い出される、いつまでも若いつもりでいたのにいつのまにか三十七才、

この分だと四十、五十、六十とすぐ目の前に近づいてきそうな気が致します。一般的な日本の企業では毎年新入社員が入社してくるのが普通であるが、こちらに来てしまった私達には先輩の立場として

新入社員を迎えるというような事はなかった、ブラジル人の新入社員はあっても私達とは立場が違う、新入社員が入社してこないが故に自分達がいつまでも歳を取らないという錯覚におちいるのではない

だろうか。この前の十五周年記念集会でもそうであったが、数年ぶりに顔を合わせた仲間の間で十五年間の肉体的な衰えは当然少しは誰にも感じられたが、精神的には誰一人渡伯当時と変っている

ようには思えなかった、全く昔そのままである、そんな雰囲気の中で過ごした数時間、誠に愉快であった。もし誰かがこの十五年間で何が一番印象に残っているかと尋ねるなら、大半は渡伯当時の出来

事を思い出すのではないでしょうか、電話局で無我夢中で仕事をした事、現場での訓練、ポルトガル語の学習、早朝出勤が大変だった事、ペンソンでの食事、飲み屋のはしご、プライヤでの目の保養、

残業手当が基本給を上回った事等、その当時の出来事一つーつがはっきり頭の中に焼き付いています。十五周年記念に際し、何か一筆書いて下さい、と頼まれ筆無精の私が今だに考えのまとまらな

いまま、だらだら書いているのですが。仕事の上でブラジル国内を旅行する事は、ほとんど皆経験していますが、ここ数年来国外出張もだいぶ盛んになってまいりました、私の場合、パラグァイ、ナイジ

ェリア、そしてグァテマラの三ケ国を訪れる機会がありました、その内グァテマラについて少々御絡介させていただきます。メキシコと共にマヤ文明の発祥の地とされているこのグァテマラ、東は大西洋、

西は太平洋と隣接しており、国土は日本の三分の一程だと思います、コーヒー、綿花、トウモロコシ、バナナ等、農産物の輸出で中米第一の国民総生産を誇る国でもあります。そこでいったい何がこの

国に高い収益をもたらしているのであろうかと考えると、実はそれはインディオ達なのであります、少なくとも私はそう思います、世界中に今でもインディオいわゆる土人に値いする先住民族の住んでい

る国がいくらかあります、大きく分ければ、ブラジル、アフリカ、二ューギニヤ及ひミクロネシア地方、そして中南米の高地に住むインディオの四種類ぐらいに分けられると思います、そのそれぞれのインデ

ィオ等が気候、風土、自然環境等その土地に全くマッチした生活を営んでいるわけです、言い変えれば、彼等には彼等の土地以外では生きてゆけない人種と言えるでしょう。その中でこの中南米の高地

に住むインディオは不思議と何か他のインディオと違った異様な雰囲気を感じさせられます。別にインディオに関して詳しく調べた沢ではないのですが、なんとなくそう思えるのです、具体的に言えば彼等

は勤勉でよく働き、内気ではあるが 自尊心が強く、また信仰心も深いが物事に執念深いところがある人種と私は感じました、要するにあのマヤ文明を築き上げた人達の子孫が今もなお、こつこつ汗水

をたらして農作業に専念しているのである、山間部では段々畑も多く見られ、大人も子供も一家総出で一生懸命働いています、農作業だけをしている彼等を見れば決してインディオとは思えませんが、

生活上の風俗、習慣、言語いわゆる土人語、それに今もふだん着として着継がれている各地方の民族衣装等を目の前で見るとやはりインディオである、もちろんグァテマラ社会でも彼等は土人(イン

ディヘナ)と呼ばれています。そんな訳で私はグァテマラのインディオに全く魅了されてしまいました、また一年半のグァテマラ生活でインディオだけではなくほかにも多くのことを学ぶことが出来ほんとうに

いい体験だったと思います。この十五年の間、決して楽しいことばかりではない、辛い事や悲しい出来事も皆それぞれが体験してまいりました、だけど今一人一人が、この機会に各々の思い出を書きつづ

る時が与えられ新ためて現実の自分を再認識出来るのではないでしょうか、私の場合ブラジルに来てほんとうに良かったと思います、またそう思える私に、私は心より神様に感謝する次第であります。


スタンダード社での思い出

桑原 哲夫

 見慣れた魚沼三山や、魚野川を後にして、日本を立って早くも十五年の歳月が、過ぎてしまいました。電話局で泊り明けの仕事でしたので休みだけは多く、その休みには山登りやスキーばかりやって

いたのでずが、ブラジルに来てからは、これらの楽しみもほとんど縁が遠くなってしまいました。しかしベルーのリマからリオに向う途中のバリギの機内より見たアンデス山脈の雄大さには目を見張ったも

のでしたし、七十年九月に一人でアルゼンチンのメンドサからチリのサンチャゴにぬける途中の真近に見るアンデスの山々のスケールの大きいのには日本の山なんかほんとうに小さく感じられました。

又サンチャゴに着いてから、五十キロ位離れたファリジョネヌ、スキー場まで行き貸しスキーがないので、その辺に滑っている人に、頼んだら気軽に貸してくれたので、二、三回ゲレンデを滑った事な

ども、ほんのちょっと前の出来事の様に思われます。リオに着きフラメンゴのフロリダホテルでの最初の夜何を感じたかと云うと、車の排気ガスの匂いの強さと、軍事政権と聞いていたのにアメリカの音

楽ぱかりかけている放送局が多かった事です。ホテルでー週間なんとなくゆっくりできましたが次の週からグラジャウーの局で朝七時にカードを押さなければならず、フラメンゴの宿を五時半起きで外も暗

く日本では想像もしていなかった事でした。日本では週五日制という事だけが良く思われ、日に何時間働くかなんてあまり深く考えもしなかったからでしょう。

 あの頃はカフェーが十センターボ、・オニブスが三十五センターボ、ガソリンが六十五センターボ、ドルが三コント八十センターボ、時の大統領はコスタシルバからメジシに変ったばかりの頃でインフレも

年に二十何パーセントといった時でした。 日本では二年近く、C400とC22をさわってきてペンタコンタの交換機を目の前にしましたがえらい安っぼい、動作の遅い交換機だと云う印像でした。こんな方

式では保守の人も大変だろうけど、我々テスタドールも集中試験架がない交換式のテストは仲々大変なものでした。只この方式でイデンチフィカソン・デ・アッシナンテとフェシェ・コネクトール。の動作は仲

々便利なものだという感じがしました。この頃、日本では読んだ事もなかった文芸春秋を月々買って読む様になりました。と云うのも日本では家でも職場でも日本語の本、雑誌、新聞等ゴロゴロしていま

したがリオではそれが一転してものすごく珍しく感じられた訳です。リオでも出張先でもこの本を買って読むのは楽しくもありましたし、特に去年アラスカのマツキンレーを目さして亡くなられた植村直己氏

の書いた冒険物など二回も三回も読んだものでした。それなりにいろいろな知識や教養も得られたと、自分なりに思われます。でも八十年にサンパウロに越して来てからは、日本語の書物が身近にな

った事やビデオを見る時間が多くなり文芸春秋を読むのもほんとうに時々といった様になってしまいました。


「ナイジェリア見聞記」

宮本 隆

 毎週、月曜日の夜9時、サンパウロのコンゴニァス空港から出発するパリーグ機に乗り、翌朝11時現地時間では4時間の時差でナイジェリアのラゴス空港に到着。64年7月末、サンパウロではオーバ

ーが必要な程の寒さが、ラゴスでは蒸し暑く、69年にリオヘ看いた当時の年を思い出しました。ラゴスの空港には、79年に象牙海岸の首部、アビシャンから、日本へ行った時に給油に立寄った事がある

のですが、今回は6ヵ月の出張旅行でしたから、色々と新しいものが見られるかなと期待していました。しかし象牙海岸から比べると、都市は未だ整備されておらず、電気、水は度々不足し、下水道は

無くゴミと汚水が流れている状態でした。アフリカはどこでも貧富の差が激しいのですが、ナイジェリアも他聞にもれず、一流ホテルには、一泊百ドルの部屋があるかと思えば、すぐ

傍の堀立小屋で、現地人が食事をしているという状態です。未だ文盲の人も多くナイジエリアの最多部族であるハウサ族の中年以上の人には、公用語である英語が話せず、買物の時に

は手真似で金のやりとりをする始末です。昔は一万以上の数の言葉も有ったそうですが、現在は、老人だけが知っていて、大多数の人達は部族語の中に英語を混用して用を足していま

す。一度、ラゴスから地方へ出張に出ると、約3週間の内に四千五百キロメートル程車で走ります。ナイジェリア人の運転手が運転するのですが、運転が荒くリオのタクシーの運転手

顔負けという感じです。頭にはトルコ帽のような帽子をかぶり、アラビア風の長衣を着た回教徒がそのまゝ運転するのですから、さぞ運転しにくいと思うのですが、そういう服のまゝ

140〜150kmの速度で、道路を飛ばしています。約9千万と言われている人口のせいか、又は気候のせいか、野生の動物は余り見受けられず肉も高いので、野犬や飼犬さえも、

シュハスコにして道路傍で売っている始末です。83年12月末の軍事クーデターの結果発足した軍部政権の取締りが厳しく、主な密輸製品は品薄及び、値が上昇しており、日本人の

主食である米も不足していました。ナイジェリア産の米は、石油臭くて食ぺられず、スパゲッチや、パンで代用食とし次に手に入る迄のガマンというところでした。

 ラゴス及び、地方都市では普段、白人の姿を見る事は滅多にないのですが土曜、日曜日にはどこからともなく海岸や、クラブに集って来て、こゝがアフリカなのかと思う位のにぎや

かさに成ります。一流ホテルではカシノがあり、プラックジヤック、ルーレット、スロットマシーン等が備えつけてあり金曜、土曜の夜は、足の踏場もないというょうににぎわいを見

せます。アフリカ人も結構バクチが好なのですね。中国人や日本人も多く、様々な言葉が飛びかわっています。リオやサンパウロで多々見かけるボアッチは無く、又夜間の外国人のー

人歩きは危険で泥棒よりも警官の方が悪い人間が多いみたいです。余りよくなかった見聞記になりましたが、魚釣りの好きな人には楽しめる所です。ラゴスの近くでは、海釣りをする

人もいなく、魚はえさを変るのに忙しい程の思いをしました。


渡伯十五年を振りかえつて

中村 昭男

  私が伯国移住の動機と成ったのは、友人の松本君が新聞を持って来て「海外で仕事をして見ないか」の一言からである。条件を見ると、これは何んと当時の給料の三・四倍強、早

速親には内証で応募した所OKとなった。一方会社では社員教育、その他諸々に大金を掛けているとかで私の余りにも身勝手さにクビにすると云い出し暫くゴタゴタしたが何んとか円

満退社出来一九六九年十月九日伯国に第一歩を踏み入れる事が出来た。ガレオン空港からスタンダード差し廻しの車で初めて見る異国の景色に何んとなく心細さを感じたが、ホテルフ

ロリダには先輩諸氏が待っててくれ良きに付け悪きにつけ色々と面倒を見てくれたので心強い限りだった。同ホテルの滞在は二週間その間街の見物やら海水浴等呑気な毎日を過した

が、何しろ日本で二週間かかって覚えたポルトガル語は「ハイ」「イイエ」「欲しい」「寝る」位のものでとても物の役にはたたない。同僚四人でポンデアスーカルに行った時などは

行く時はホテルの前からどうにかタクシーをつかまえたが帰りは私達のポ語では何処に連れて行かれるか恐ろしくなり約六粁の道のりをテクテク歩くハメに成った。

 二週間もまたたく間に過ぎ去り会社の通訳を通しホテル生活に別れを告げ下宿に入った。さて無事下宿に落着いたのは良かったが夜な夜な虱に攻められ寝る事も出来ない、やっと辞

書で虱は「プーガ」である事を発見し下宿の小母さんに「プーガ、プーガ」と連呼してもその後が続かない、殺虫剤を手に入れるまで二十三才の大人がベソをかいて過さなければなら

なかった。 あの頃は伯国は貧しかったか接する人々は非常に親切だったし近頃のような強盗の心配もなかったように思う。

 愈々仕事に取りかゝる事に成ったが、日本のXB交換機とえらい違いその上すぺての図面やら説明書はボ語である。簡単にのみ込める訳はない。せめてこれ等のドキュメントだけで

も日本語であつたらと思っている中に二ヵ月間のペンタコンタ交換機の講習が始まった。勿論通訳付である。これで何とか仕事も出来る様に成る。

 リオー年、ブラジリアー年半、バウルー二週間、そしてロンドリーナー年が私のスタンダード社における勤務地でした。その間ブラジル人の気質やら考え方が少しづゝ判るようにな

り私共島国とは相容れない大陸的とでも云うのだろうか大平楽の生活を楽しんで居るように思えて仕方がなかった。日本人は夜勤と成ると一睡もせずコツコツと仕事をするがブラジル

人は勤務であろうと夜は寝るために存在すると思ってか申訳程度の仕事をしているなと思ったら機械室に響けとばかり大イビキ全く気楽なものだ。こんな事では何時の日か全国ダイヤ

ル即時が可能になるのかと心配したものだつた。然しながら十五年を経た現在、国内ダイヤル即時はおろか国際ダイヤル即時にまで進歩していることに一驚したが、我々の技術も一役

かっていると、ひそかに自慢しているのは私一人ではなかろう。又こんな事をロンドリーナで経験した。と言うのは同局の加入者回線切替のため七十パーセントの加入者を不通にして

実施されたのである。到底私共には考えられない事で一加入者に聞いてみたら「サンパウロまで馬で用をたした事を思えば少しでも接続されるだけ有難いことだ」との答が返って来

た。全く感心させられる。一九七三年想い出多いスタンダードからNECに移り現在に至っているが十五年を振り返ると自分の知らぬ間に人生と云うエスカレーターが気儘に進められ

ている様な気がしてならない。


十五年を顧て

高木 啓次



 昭和四十三年の夏の終りだったと思います。昼の食事の後、新聞に眼を通していて、スタンダード社の電話技術者募集の広告に、出合わしたのがブラジルに来て、今日迄腰を落ちつ

ける発端でした。気がついた歳頃から、これといった理由もないのに外国に憧れていて、それを満足させる為、文通と映画館通いに、今思えば本当に貴重な人生の一時期を費じたもの

です。其の後外国へ行く手段を色々と考えたものの、いずれも問題が有り実現不可能と成り、もう諦めていた矢先の事でした。 三十一歳という齢を忘れて、直に京都府庁内に有っ

た移住事業団京都支部へ連絡じ、当時の支部長であった川崎氏に手続き等の説明を受け、書類等を提出し、大阪で有った面接に行ったのが十月始めでした。其の結果として採用通知を

受け、ブラジル大使館で入国審査を受ける為東京へ行ったのが十月の終りで、十一月始めにはSESAの意向として月末には日本を発ってほしい旨連絡を受けました。
 
夢を見ているような短期日に決まってしまったのでこれに前後して持上った結婚の話迄が、そのリズムに巻き込まれた様に婚約の形できまり、吾が事乍ら少し慌てたものです。ところ

が、当時勤めていました会社の方の仕事を他の人に申し送りする為の時間がなく、十一月末出発は難しくなり一度は採用辞退を申し出る事も有りました。但しSESAより遅れても良

いらかとのTELEXを受け、結局昭和四十四年一月の二十三日に両親、家族そして婚約者と成った女性の見送りを受けて、晴天なのに肌寒い羽田を発ち、一人でリオのガレオン空港

に着いたのが同じ日付の二十三日午後でした。出迎に来て呉れたシャーペンティーエル氏とコパカバーナのホテルヘの自動車の中で下手な英語で話しをしたのがつい昨日の様に思われ

ます。又その道で見た深い紺青の空を背景に浮き出たコルコバードのキリスト像が今でも忘れられず時折同じ様な状況で見るキリスト像に、あの日もこんな具合だったと思い起す事が

度々有ります。人間の一生を大宇宙に較べて見る時、それは極小のAにしかすぎない・・とよく言われますが、我が身に起る様々な事を思う時自分の一生は紙の上に引かれた一筋の線

の様に、多少の揺れ動きは有っても始めと終りが生れだ時と死を迎える時と言う形で決っている様に思えて成りません。
 
 外国へ行きたいと思って居乍ら行く事が出来ずあきらめた頃にその機会が来たり、考えもしなかった南米のブラジルに住みつき十五年も過す様に成った事等、「運命」の二字で呼ばれ

る眼に見えない約束事の様に思われます。私と同様に十五周年を迎えられたSESAの会、会員皆様との関係も又日本へ帰られた人連とも「何かの縁」という言葉でつながっでいるの

ではないのでしょうか?。各自の持つ運命として定められた縁が日本を遠く離れたブラジルという点で結ばれた、としか思えないのです。この縁は大事にして行きたいものです。嬉し

い事悲しい事、いずれも済んでしまえば只、思い出と成るだけですが、皆で分ち合ってこの先、二十年三十年と生きて行きたいものです。そして何時に成るか判りませんが、歳老いた

皆が顔を合せて昔話に笑い合える日を迎えたえと思います。
今だに青空に湧き昇る入道雲を見ると私の心は「見知らぬ遠い何処かに旅立ちたい……」

と騒ぎ出します。しかし、それは何処か・・と問われても返事の仕様もない程、形も何もない目的地なのです。若さにまかせて飛び出して来た日本が思いも掛けず懐しい今日此頃で

す。


ブラジル十五年

富永 誠一

「俺は首に鎖を付けられた覚悟でやる」と皆川さんは断言された。それは十五年前であった。渡伯後僅か,五ヵ月で、当時のブラガ人事重役に私は解雇を申し渡された』のであっ

た。新妻は身重であったので、胎児の影響を考慮して私が解雇されたことは妻には打ち明けなかった。私は自分の事は自分自身で解決出来る自信と若さに溢れていた。それで領事館や

事業団を走り回った。ブラガ重役の部屋にも行き、ブ口ークン・イングリッシュでどなり立てた。しかしこの秘密も三日目にして不本意ながらばれてしまった。私は何時もの帰宅時間

の六時半に合わせてなにげない顔で帰宅した所が妻はビックリした顛をして「あら、今日はどうして早いの?」と問うている。早い事ないよ、何時もの時間だよと応えて、時計に目を

やればまだ五時半だった。私は一時間の感違いをしていたのだった。私は観念しで総てを妻に語った。そして私は強い圧迫感から開放され、まだ問題は解決されてもいないのに安堵の

念を抱いた。そして最も親しかった緒方氏へ電話を入れて事の成り行さを説明した。それから近くに住む、当時の私達の通訳エリーザ嬢を訪ね、今後の対策を相談した。

三十分後帰宅して私は驚いた。私のアパートの前には、皆川さんを始め緒方さん、田中さん、和田さん達が仕事を放棄して駆けつけてくれているではないか……。嬉しかった、私は

本当に嬉しかった。友人の有難さをこれ程感じた事はなかった。私はそれ迄はブラジルに渡って来る者の大多数がそうであるごとく、「一匹狼」を信条とし、他人の援助等くそくらえ

と思って生きて来た。この事件以来私は考え方を一変した。渡伯して半年足らずのポルトガル語もろくに話せない、自分の身分保証も何んら無い友人が集って、危険を犯かして私を助

けようと衆議一決した時、冒頭の言葉が皆川さんより発せられた。私は心の中で感涙した。これは一生忘れる事の出来ない事だ。決して忘れてはいけない、そして何時の日か皆川さん

を始め皆様にその恩返しをしなければと思っている。早いもので当時から既に十五年経ってしまった。あの当時は一緒に来伯した仲間の結婚式に参列したものであった。それが最近で

は子息達の結婚式に招待され、時の流れを思い知る此の頃である。この十五年で七十五名の仲間は、帰国した者、独立した者、社長へ昇進した者と種々の分野で活躍しており、久し振

りに会えば話は尽きなく実に楽しい。最後に私と私の家族を紹介したい。つい最近、社長のピストル自殺で有名に成ったマウア造船所に勤務し、副社長補佐として社の知恵袋となり、

造船王国日本の技術と経営管理法を提唱し導入している。七十四年に英国フランス等のヨーロッパ六ヵ国へ造船技術の研修に派遣された。七十六年に日本の日立造船所へ四ヵ月間、八

十一年に北米へVE/VAの勉強しに行き、その発起者であるマイルズ氏に会いGE社で研修した。八十三年にQCサークルとIEの学習へ二ヵ月間、そして来月は三度目の日本研修

の予定です。これで生産管理技術としては一人前だと自負しておりますので、御用の節は「日本技術コンサルタント」へ連絡して下さい。妻の由美子は七十六年より日本語を教え

て、昨年は国際協力事業団の奨学金で玉川大学に留学して来た。渡伯後まもなく生れた長女洋子は十五才に成ろうとしている。

 同時通訳に成る様にと教育投資をして両親は張り切っているが、当の本人はブラジル式にのんびりムードそのもの。長男の誠と次男の剛は野球に明け暮れている。私も四十度の灼熱

にも負けず、子供達の野球の手伝いをして真黒け。二人共各々ミリンとインファンチルのキャプテン、ピッチャー、四番打者なので将来の原か江川に成るよう目論み、左扇も近いと確

信している。末子の由起は友人の別荘に泊って三週間も家を空けている。星座の会は十五周年を迎えた。これを節目に心新たにして、もうー頑張りしなければならないと己れに鞭打つ

次第です。皆様も健康に留意され御元気に御過し下さい。そして今後共どうぞ宜しく御指導下さい。予定されているリオでの二十周年行事には一働きして、皆様へ御恩返しをしたいと

心に誓っております。


脱!すたんでいろ

岸 真司郎

 石田、高木両氏を始めNECで働いて居られる皆様方の暖かい御援助に心から感謝しながら …………
 長い間務めていたスタンダード社が左前になった。最も今度が始めてではない。六七年前からの慢性左前なので、なに又その内に……と思っていたら今度こそ本当に左前になった。

それは九月分の給料の遅配に始まって十月分からは無配になった。左前にはなりながらもそう云う事はかって一度もなかったので有る。スタンダードは面白い会社で左前になる度に。

“これからは良くなる”と云う噂さが立ってやっぱり悪くなるのである。 私は相変らずの出張でこの度はパラナ州のカスカベウで働いていた。出張中だと云うのに給料も出張手当も

立て替えた旅費すらももらえなくなったので有る。それでも平気で良くなる事を信じながら一生懸命に働いた。“武士は食わねど高楊枝”である。所が一緒に働いて居た連中からの毎

日の様に有るヘクラマソンにとうとう音を揚げて会社に電話を入れた所。お前そこで何をしてる?速く全員引き揚げさせろ!もう一週間も前からストで誰れも働いていない、他の出張

先の連中は皆んな帰って来て居る!!と全く無責任な返事。大変な事になったのはそれからで有る。借金だらけの連中を一文も払わせないでどうやって帰すか、びた一文もらえないと

なると欲のかたまりと化したペンソンの女主人をどうやって納得させるか、それからの一週間は毎日同じ弁解のくり返えしと頭の下げ通しでスペルビゾールがこんな損な役迄しなけれ

ばならないとはついぞ知らなかった。話は変るがそうこうしている内、高木さん、石田さんから。NESICで働きませんか’と云う朗報が入ったので有る。所がこんな有難い話しに

もかゝわらずほんの少しだがとまどった。と云うのは以前私は人員整理が有る、度び、に、私も首にならないかとひそかに期待していた時期が有った。今から考えれば一時の気まぐれ

で有る。そしてその望みはついぞかなえられなかった。だから逆に開き直ってよしそれなら会社がつぶれるか、アポゼンタードになる迄かだと考えを変えたばかりだったのである。変

えたばかりの考えを又変える必要にせまられた。一週間余まり考えた末自分丈の事ならともかく、家族の事も考えなきゃ………と変なこじつけで再度考え変える事にした。そしてグレ

ーベの最中にオスカーに辞表を出した。クリスマスまじかと云うのに十月からびた一文もらわないまゝにで有る。何かひにくを云われるかとかくごしていたがそれは思い過しにすぎな

かった。彼はどうしても辞めるのか?と云いおもむろにサインしながら。何処で働くのか聞いても良いか?と・・・・・かくさずにNESICだと答えると、それではNECの仕事をする

のか・・・と云いながらじっと私を見た。その目が。プルータスよ・・・と云っている様に思えたのはこれも私の思い過しだったたろうか・・・。 そして今、昨年の暮れからNESICで

お世話になっている。同じ道の仕事とは云えシステムの違いから、又、苦労のやり直しで有る。振ったサイコロの目は振り出しにもどった。が、又これから大変だ等とは思っていな

い。スタンダードに居た間かなり苦労した(つもり)お影で、はたから見てつらいだろうと思われる事も自分では気付かない程になっている。得難い経験をしたと思っている。

 結局私はスタンダード社と共に浮き沈みしながら十五年と四ケ月を過した。先程苦労したと書いたが、それは今全べて楽しかった想い出と化した。なぜかとはっきり云えないが辞め

た今もこの会社が好きで有る。自分がどんなに愛社精心を持って働いて来たかを他人に胸をはって云える様な気がする。唯一つ残念たったのは最後の仕事が中途半ばに絡った事で有

る。だから誰れが後を引き継いでもさしつかえない様にきちんと整理をして去った。“立つ鳥後をにごさず”のつもりではない。きっと心の奥の何処かにこの会社を去り難い想いが有

ってそれがそうさせたに違いない。最後に、今は商売敵きとなったとは云えスタンダード社の前途の発展を祈りながら筆を置く。


十五年過ぎて

高橋 ヒサ

  日本での生活に終止符を打ち不安とそして、期待に心はずませ、ブラジルに来たのも、思い返せばもう、十五年前と云う長い月日が、たってしまいました。

 始めの一年間、言葉、風習、買物そして子供の教育の事など、何もかも夢中で過ぎて行きました。少し大胆に出来ぬポ語を平気でつかってみたり、買物をしてだまされ、いらいらし

たのもその頃です。大らかで、あけっぴろげで、そして陽気な国民性に、何となくとけ込み、いやいやながらも妥協して行くうちに、いつしかブラジルが私には、あっているなあ

ー、と思うようになり、そのうちブラキチ(プラジルキチガイ)とまでは行かずとも、好きになってしまいました。ブラジルに来てすぐ、友達がパスに乗り人の足をふみ、あわててあ

やまらねばならぬのに、言葉は習って知っているのに□には出ず、あっと、思い出したのが「パラベンスJふまれた人の顔は何とも云えぬ顔だったようです。しかし御本人にはまちが

っていても気がつかず、二コリと笑うと被害者も二ツコリ。無事下りて、あとでわかって、ヒヤ汗をかいたと云う話も、今もって笑い話の一つです。私だって同様、どんなに恥をかい

たか、わかりません。又、主人側にも、数々の苦労話も人、それぞれにあったと思います。しかしその一つ一つどれをとっても、よき十五年となるのでしようか。

 リオの生活から始り、主人の出張について、あちこちと住居をかまえ、今サンパウロに落ちついてみると、日系人の多さで、外国ではあるがそうでもなし、と云ったような、奇妙な

生活にとけ込んでいます。住みながらにして、日本の香を味わえる、幾種のものの中に、どつぶりとつかって毎日を過すように、なってしまいました。

 先日の事です。突然の電話で、私の友人であるMおばあちゃんの声。誠に真面目に、「あんた、この頃アゴン宗にこってなさるようだが、何でもアゴン宗の(実際にあるそうだが私

は知らぬ宗教)修業をつむための業を、とってると云う事だが、(一人でしゃべりまくる為、私の返事ならず)わしゃなあー。何故、あんたがその宗教に走ったものか、又、どんな

心境から業をとってなさるものか、色々と知りたいと思うのだが」と、云うことで、肝心の私は寝耳に水。さっぱりわからぬ。よく聞くと、ある人がこのMばあちゃんに、「お宅で一

ぺん見た事のある人ですよ」と云われた事で.事態は驚く話となったのです。十五年もブラジルに住めば、何かのまちがえとは云え、私もとうとうアゴン宗と云う、アリガターイ宗派

の、やがてはなるであろう、教宗様に、まつり上げられるのか、さすがブラジル。日本ではありそうもない話も起きぴっくりしてます。同じ志を立てて十五年前に、渡伯した仲間の中

に、色々の事情で帰国された方や、又、独身青年が家族をもちこの土地に新しい生活を営みつつ、それぞれの希望と、せつない願いを、織りまぜて、一年そして、又、一年と過ぎて行

きました。今、ここになつかしい顔、顔が集まり、想い出を語り、そして、再び又、一同が寄る日の来る事を、堅く約束して、十六年目の出発の年が来ました。何時までも、よき友で

あり、よきSESAの会があり、お互いに、励しあって行けるよう、望みたいものです。そして、私共の、やりとげる事が出来なかった幾多の大志を、次の世代の子供達に、夢を託し

て、ブラジルの大地に、しっかりと根をはり、大きく羽ばたく日の、来ることを、願ってやみません。