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1984年11月17日 日本カントリークラブにおいて
渡伯十五周年記念大会が催されました

その時を記念して発行された星座の会特別号です

星座の会特別号(第十二号) 
1985年1月発行

渡伯者一覧表

カントリークラブでの写真集

 

 集まりました 同志と家族

 天が私達の記念日を祝福されたごとく、当日は好天気に恵まれ、午前中はリオ対サンパウロ
 チームに別れ親睦ソフトボール試合を行いました。

 両軍チームのピッチャーやキャッチャーそれに守備も抜群そのもの、打者は大物狙ってか大
 空振りをしたり、まともに当たっての大ヒツト等々、アッチャコッチャと飛び回るボールを
 
 追いかけての大熱戦。試合を引き締める見事なホームランも飛び出し、選手諸氏も久しぶり
 の奮闘に汗ビッショリ。結果はリオチームが七対五て勝ち、ホームラン賞は富永氏が獲得し
 
 ました。試合後、田中事務局長の司会により、山崎副会長の挨拶、当地で終生された仲間へ
 の冥福を祈って出席者全員による一分間の黙祷を行なう。

 昼食は美しい日本のメロデーが流れる中、特別味付けのシュラスコやおいしいおにぎりそれ
 に盛り沢山のサラダをパクつきながらの飲み放題。

 飲物をお互いのコツプに注き返し合うのを写真係がさかんにフラッシュ。遠路から出席され
 た方々を交えて楽しい想い出話に花を咲かせる楽しい雰囲気てありました。

 午後からは各氏が近況自己紹介や家族の紹介をしましたが、可愛い二世の誕生で将来頼もし
 い限りです。次いで沢山の賞品を揃えたビンゴケームでは、ユーモアたっぷりの司会に皆さ

 ん数字を合わせるのに懸命、当ったと言う誰かの声に他の人はがっくり残念そう、次回に期
 待を寄せながら賞品が無くなるまで大奮闘。中には三度も当てた家族が出現、最後の会長特
 
 別賞では接戦の末に森下氏が大当たりで当日の最高の賞品を獲得。次いて力ラオケでは各人
 得意の曲が次から次と美声て歌われました。拍手の割合からすれば、 女性に少々軍配があっ

 たのではないてかょうか。特にお子さんめ歌は可愛いかったですね。私達仲間の記念日はこ
 の様に会員皆様方による絶大なる協力を戴き、大変楽しく且つ有意義な一日として過す事が

 出来ました。移住十五周年の記念として、会より美しいシャベーロを会員全員に贈呈され、
 当日の締めくくりとしてリオより来られた高木氏の音頭により星座の会をより発展さす意味

 て万歳三唱。参加者全員て横断幕をバックに記念写真を撮り次回の再会を誓い合いつつ名残
 り惜しく散会しました。皆様当日は本当に御苦労様てした。いつまでもお元気で再会を楽し

 みにしております。

星座の会々長挨拶

石田 勉

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。一九八五年一月

  昨年の十一月には、十五周年記念大会が、日本カントリークラブて催され、沢山の会員の皆
 様の参加で有意義な一日が過ごされました。それと同時に大会を記念する、会報特別号の発

 行が企画され、会長として何か記せとのことで、昨年中に書くべきところが、年が明けてし
 まい、冒頭の新年の挨拶となった様な次第です。

 移り来て十五年、良い意味でも、悪い意昧ても、確実にブラジルの風習が身につき、何事に
 つけても、のんびりムードで過ごす事が多くなりました。

 星座の会が発足してから三年を経過しましたがその間役員の方々には、忙しい仕事の中で、
 自分の時間をさいて、会のために種々の活動をされ、会の発展に寄与されて来られた事に、

 この特集号で厚く御礼申し上げたいと思います。さて、私達がリオに着きましてから今日ま
 での十五年間には、当時思ってもみなかった事が私達自身の上にも起ってきました。

 今迄に約二五名が日本に帰国され、二名がブラジルの土となられました。現在サンパウロに
 約二十名が居住しその他の人達は、リオ、クリチバ、ブラジリア、ポルトアレグレ等ブラジ

 ル各地で活躍されています。ブラジルの状勢も十五年の間に悪くなるー方で、特に我々に一
 番関係の深い通信建設工事も縮小され、一九七四・五年当時の面影も有りません。

 新聞、テレビ等では明かるい方面に向かいつゝある様に言っていますが、今年は新大統領が
 一応民主的に選出される事になっているので、新しいブラジルの出発に期待をかけながら、

 今後とも我々会員の一層の発展を祈る次第です。


移住十五周年に想う

山崎 正美

新年おめでとうございます。会員の皆様並びにその家族の皆様には益々御健勝の由、謹ん
 
でおよろこび申し上げます。

 さて、私達同志はブラジル国に於ける、通信拡張計画の実施に関連し、各諸氏並びにその御
 家族が共に新しい人生の遠路を将来の美糧と展望し、勇断を持って当地に移住された事と存
 
 じます。外国に移住する事は母国と違って、言葉では表現出来ない多様な苦労が生じるもの
 でありますが、これ等を克服する努力が必要でありそれには周囲の環境を理解し定着心と強

 い忍耐力がまっちしないと、自己の基盤を構築する事は困難ではないかと思います。私達
  はこのような心境を自覚し常に心得、今日に至ったものと考えます。しかし仲間の中には家

  庭の事情や諸般の都合で既に帰国された方々も生じました。そして運命と申しましょうか、
 若年ながら不幸にして当地で生涯に終生された方もごさいました。又単身で移住され現在で

 は幸せな御家庭を築いておられる方々も沢山おられます。どちらかと云えば、この十五年間
 にお目出度い方が遥かに多かった事は何より喜ばしい事と申さざるをえません。

 当会による同志のまとめによりますと、家族数は別に致しまして、会員七十三名、帰国者十
 九名死亡者二名、そして現在五十二名との数字でありますが、その諸氏達が国内で分散され

 夫々の分野で活躍されておられるのでありますが、時代の流れと共に変って行くものだと痛
 感致しました。こうした情況の中で昨年十一月十七日、日本カントリークラブに於いて移住

 十五周年記念行事は好天に恵まれ、サンパウロ在住家族は勿論のこと、遠距離にもかかわら
 ずリオ方面からも家族を含め多数参加の上かくも盛大、且つ喩快に催しを実行出来ました事
 
 は、とりもなおさず先代役員諸氏の蓄積並びに会員皆様による親睦心の賜ものだと認識致す
 次第でございます。会員の中には六ヵ月毎に催して欲しい、或は年にー回行ったらどうかと

 の良案も耳にしました。そうした声は日常近隣や特定の方以外に逢う機会が無く実際に対面
 してお互いに懐かしさを味合う楽しさや色々な意味での相互的な親しみの画れる有意義な場

 所を短期間に実施願いたい意向だと思います。ところで残念ながら石田会長が急病の為参加
 出来なかった事や、諸般の事情で不参加になった会員もございましたが、これ己むの無い理
 
 由があり、会報及び特報の送付により仲間の近況をお知らせ致す事で了承願う次第であり    
   ます。又当会による同志数ではまだまだ多数の仲間が未会入になっております。皆様方は会
 
 と云う名実の意義を充分認識し理解されておられる事と存じますので、本年は是非とも新た
 な呼びかけを画り、一人でも多く入会される様、事情御賢察の上宣敷く配慮願いたく思いま

 す。そして次回の開催時には益々盛大な構想を企画され星座の会をより進展される事を期待
 するものであります。最後に、私達移住十五周年行事に際して絶大なご協力を下さった諸氏

 並びにそのご家族の皆様の御厚情には心から敬意と御礼を申し上げる所存でごさいます。


ブラジル流れ旅

田中 公

  伯国スタンダード社へ技術移住した日本人仲間て私ほど目的もなく、夢もなく来た人間は
 いないだろう。何しろ独身の身軽るさ故、ブラジルがどんな国なのか? スタンダード社は
 
 ?何も知らずに、只、何となく、ブラジルヘ移住してしまった感じ、そして、そのまま居付
 いて十五年の歳月が流れた。もし、あの時、十五年前、日本移住事業団が、スタンダード社

 人事担当重役が、慎重に、且つきびしく、移住者としての適応、心構まえ等、移住希望技術
 者の人選を行なつていたならば、私如きは、当の昔、シッポを巻いて逃げ出していた事、疑
 
 う余地もない。正直な所、私は、人事担当重役との面接テストも受けず、無責任?とも思わ
 れる移住事業団の勧めるまま、自分のもらう給料の正確な額さえ知らず、勿論、重役とかい
 
 う顔も拝まず、ブラジルに来てしまったのてある。そんな男が□幅ったい事を言う訳ではな
 いが、スタンダード日本人技術
の、私達仲間の定着率が非常に低いように思う。

 正確な数字ではないが七五人中、三十人余りが十五年を待たずして、日本へ引揚げてしまっ
 たのである。この数字は、戦前、戦後のいずれもきびしい農業移住者に比べて、比較になら

 ない程だ、又一方同じ技術移住者の例にしても、私達仲間の独立者自営者も少ない。この方
 は、ある程度、仕方ない事である、何故ならもともと電話技術者としての、同業仲間ばかり

 だから、しかも、公企業のプロジェクトに携わるもので、独立はむずかしいのだろう。いず
 れにしろ、戦前の崇高な農業移住者、一発一旗組、又戦後の外地引揚者、炭坑離職者、ブラ

 ジルしかないという人達とは移住に対する気構えが違っていたのだろう。同時に私達仲間の
 ブラジルに於いて、他の日本人移住者にくらべ比較的に恵まれていたのではないだろうか。

 それが逆にしぶとさを育まなかった理由であろう。こんな事を言う自分はドップリつかった
 サラリーマン生活も、インフレと新給料調整法で、湯如減がぬるくなってしまったが・・。

 それでも、それでは何かー旗挙げようと思ってみても、そう簡単に脱サラと言う勇気が湧か
 ない今日今頃です。元来なまけものの私にはブラジルは適しているのだろう。人は「プラジ

 ルボケしたのだよ」と云うかも知れないが、案外、移住事業団は私がブラジルに適している
 事を見抜いていたのかも知れない。


住めば都

皆川 匡

  ガレオン空港到着と同時にムットした熱気に包まれた。六月は当国の冬であると聞いて来た

 が、夏は恐らく焼け死ぬ程暑いのではないかと心配したものだった。又何となく異臭が鼻に
 付きまとい、街行くオンボロ車からクラクションで驚かされ、話す言葉はチンプンカンプ

 ン、日ならずして望郷の念にかられる。半年後に家族が来たが、その頃には私自身或る程度
 リオの街の面白味(?)を先輩諸氏から指導していただいたお蔭て、ヒョツトすると私にと

 ってリオは都になり得るのではないかと思う迄になって居た。家族と居を構えた当初妻は西
 も東も判らず、勝手が違った食品にとまどい、肉屋にブラ下がって居る豚に恐れをなし、そ

 の上に育児となると、出て来るものはグチのみで夫婦ケンカの余地も無い。半年も過ぎると
 そろそろ日本を出るときに切り落した筈の角が再生し始める。「もう我慢も限界よ、今すぐ
 
 日本に帰らしていただきます」と来る。こちらにして見ればはるばる太平洋を越えて輸入し
 た逸品(?)ろくに活用もしない内に返品では「OK・チヤオ」とも言いかねる。そこは輸

 入主の頭のヒラメキ、返品して貰うにも敵は替為輸出の手続を採れる筈もない。「うんそ
 うか、反対はしないよ、ただし自分から帰ると云いだした以上お前自身て手続きをして帰れ
 
 るなら帰ったら良い」とすまし込む。こんな事が数回続くうち自分から帰るとは云い出さな
 くなつた。その内俺の方から「日本に帰れ」と怒鳴っても「何よフフン」と答がはね返って

 くる。そろそろ都の生活に染色され出したなと思う。そして近頃は貴方丈け帰ったらよいで
 しょうとソッポを向く。いやはや「住めば都」、人間よく出来てるもんだ。お陰様で今では

 我家にとつてブラジルルは完前な都と化した様だ。ここ二年の内に四、五回アフリカにやら
 れたが住めば第二の都になりかねないとひそかに恐れている今日この頃である。

 

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