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電 話 屋 さん
皆川 雄
仕事を始めてから年金生活に入る迄、
総て電話屋生活でありました。まず、磁石式交換
機,
電電公社の工作工場に、公社退職の爺さんに教わりながら、交換機を収める仕事。そし
て有線放送用の交換機を日本電気の芝浦工場に収める仕事。これらの事を平行しているう
ちに擬似呼試験機の製作が日本電気より入り、その製作もしました。そうこうしているうちに、
仕事上の先輩より、工事をやらないか、工場の中での仕事より良いぞ、出張が沢山有る。
(工事とは, 交換機の据付試験工事の事です) と言われ、面白そうだと思い工事会社に入り
関東一円ですが、半分は東京、後は地方周りの工事屋生活です。初めのうちは交換台の仕
事が結構有りま した。群馬県の田舎の磁石式、千葉県の中都市の共電式等の内、東京の
丸の内の市外局は何と言っても忘れられない局でした。
なにせ四千人からの職員の中95パ
ーセントが女性職員です。 我々は20代の如何にもならない若者ばかり、
監督から工事長ま
で、うるさいのなんの、エレベーターの中では女性職員の顔を見ちゃいけない、話し掛けるの
はもっての外、特に切替の時など主幹とか言う白髪の婆さんがデンとかまえていて我々をジ
ロジロ見ています。切替は徹夜仕事です、交換手も夜勤が有り毎日何人かが泊まり込みで寝
室もちゃんと有ります。上の人 達の心配は分からないでは有りませんが何時も疑いの目で
見られるというのは愉快なものでは有りません。又新入生が汚い仕事、たとえば古いケーブ
ルの撤去とか掃除とかをやらせると、すぐ埃だらけになります。大勢の交換手の中には昔の
同級生なんかがおりますから、恥ずかしがって嫌がるので困った事もありました。そのうち、
クロスバーになってからはそうゆう事も 無くなり、何時の頃からか我々の職業はと聞かれる
と「電話屋」と言うようになりました。八百屋、魚屋、等々、自嘲を込めての「電話屋」です。
やってる事が何々屋なのです。そんな、こんなで、まあ独身者の根無し草、
あっちへふらふ
ら、こっちへよろよろ、と とにかく生きているうちに、友達の門ちゃん事、門長秀男さんが、新
聞でブラジルのリオデジャネイロと言う所の会社が電話の工事屋を募集しているから行かな
いか。と言うので冷やかし半分面接を受けたところ、
給料が大変良いので一緒行く事にしま
した。昭和44年1969年4月の事でした。誰でも忘れられないあのリオのガレオン空港のむっと
する暑さ。カリオカの言っている事が全然判らなく、ただ“ポー、ポー”と、しか聞こえません。
ペンタコンタは初めてだし、ポルトガル語は判らないし、ま
あ楽では有りませんでしたが、リオ
は良い所でしたね。景色は良いし、食べ物は美味いし、
カリオカは綺麗だし 、給料は悪く無
し、で。さらに、なんと言っても責任の軽さです。日本では納期だ、予算だ、公社の監督だ、上
役だ、と息のつく暇も無かったのが、ただポルトガル語とペンタコンタの勉強だけですから、楽
しかったですね。おかげで給料は全部どっかへいってしまいましたが。リオに来てからは皆同
じようなものでしょう。私の場合はリオに始まって、ブラジリア、マリリア、ウベランジア、リオグ
ランデ ド スールと渡り歩いている内に、重い荷物を背負う(Casado)ことになったりで、
又リ
オに帰って来て、最後はブエノスアイレスで。ペンタコンタ一筋、リオに帰って来たら、 既に居
る場所が無く、はぃさようなら。でスタンダードの12,3年は終り。 旅又旅の(と言っても半分ぐ
らい)給料暮らしは終り。 さて、 とブラジリアの尼崎さんの所でPBXを一年ぐらいやりました
が、どうも実入りが少ない。 それでサンパウロに出てきて、ボビエルとタンデムの下請け。此
れはもうごっちゃ混ぜ、何でも有りで。まず交換機関係ではエリクソン、ペンタコンタ、NEC。
MTS(セルラー)、 EMBRATELはトランスミッソンと兵隊さんを何人か使ってですから、こ
れは、もう電話屋では無くて、税金と給料の仲介者。 まず親会社よりお金をもらい、税金を
払う、(此れが腹が立つ沢山有って)。 そして兵隊さんの給料を払う、残ればそれが私の取り
分となる。良く言へば、皆んなに給料を払い、 税金をちゃんと払う、 世の為人の為にやって
いる。悪く言へば“ピンハネ”となります。そんな事を旅をしながら、(やっぱり放浪癖は直らず
サンパウロ州、に始まりバイア州、リオ、ミナスもちょっと、パラナ州と渡り歩く。)20年近くやっ
た事になります。その間、妙な事も有りました。何時でしたかバイア州の田舎町の仕事をして
いた時です。部品が足りなくて隣り町に在るテレバイアの倉庫に向かっている時です(80か100
Kmぐらい)。運転していると眠くなるので、大声で歌をうたいます。その時は思いつく限りの歌
を歌い尽くし、 何気なく昔兄貴が会津中学に入ったばかりの時歌っていた学校の歌うたいま
した。そうしたら涙がポロポロ出てきて止まりません、 拳で霞む目を拭きながら何分間かを走
りました。如何して涙が出たのか判りません。18で故郷を出てからこの歌を歌ったのは1度か
2度目です。涙が出るなんて、こんな事はかって無かったのに不思議な事です。 但しあの涙は
心地良いものでした。そして、2002年から3年にかけて、 仕事が全然無くなり兵隊さんを全
部自由にしてやり、 会社を閉め(これも大変、一年位かかる)今は年金暮らし。ブラジルの年
金制度は素晴らしく、公務員には大変良く、我々民間には雀の涙。 せめて象の涙ぐらいにな
ればと思っても夢の又夢でどうにもならず、 楽しくやってます。 ただブラジルだけがと思った
ら、 日本でも公務員が断然民間より良いのだそうです。 ただ普通の人には判り難くなってい
るだけなのだそうです。こんな訳で物心付いてから、 磁石式交換機からピンハネまで総て電
話に関係して生きてきましたが、今は素晴らしいブラジルの年金で夢のような生活です。思え
ばそれぞれの場所、時々に色々有りましたが、 楽しい事、苦しい事が有ったはずですが、不
思議と楽しい事しか思い出しません。ことにカリオカと働いている時は楽しい事が多かった様
です。彼らは何時も楽しむ事を忘れない人達でした。アルゼンチンについては「アルゼンチン
人は正装した泥棒」だ、とブラジル人が言ってましたが、まさにそのとうりであんまり良い印象
ではありませんでした。パウリスタは比較的真面目、ガウショはカチカチ(他州にくらべて)バ
イアノはまさにバイアノで、もしこの世の人達が総てカリオカとバイアノだけでしたら、楽しいで
しょうね。まず進歩 (総てにたいしての)進歩は考慮がい、 原始時代に毛の生えた様な世の
中がずーと続き進歩も何も有ったもんじゃ有りませんが、良い世の中でしょうね。進歩なんて
有っても無くても、「それがどうした!」と言われてみれば、 無いほうが世の平和の為には良
いのですから。まあ変な話になってしまいましたが、前(元)電話屋、ずーと「毎日が日曜日」を
やっております。
平成16年6月 吉日 ブラジルは
サンパウロ にて 皆川 雄
では 蛇足ながら、私の涙を誘った歌の歌詞を記します。学校は旧制の中学です。
飯盛山の 桜花
鶴ヶ城跡の 秋の草
会津平野を 行く雲の
移り変われど 若人の
理想は永久に 変わらじな
飯盛山は かの白虎隊の少年隊士が戊辰の役に切腹した所。

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