寺尾の養蜂とプロポリスの略歴  


「七転八起」といわれます。寺尾貞亮(テラオ テイスケ)は1939年生。私達の父はピアニスト(本籍、新潟県佐渡相川)は第二次大戦中、1944年、京都に

て、徴用で軍事工場に狩り出され、急性肺炎になり、当時は医者も薬も無く、私が6歳の時、私達家族の目前で、天に召されました。1945年には、長崎に移転して

原爆被爆。46年、母が 再婚、野山と海に恵まれた長崎西海で、少年期の8年間を農家で成長しました。私自身,1才の時に肺炎を患い、その後、被爆した為か、慢

性中耳炎及び病弱の少年期を過ごしました。第2の父は、大酒飲み酒乱のため家族分裂。私が21才の時、大自然の豊かなブラジルに憧れ単身移住。ブラジル到着第

一歩は、南リオ・グランデ州にて、トマテ栽培に3年従事、農薬に冒され離農。各州を流浪し職を転々とし、後、サンパウロ市にて、メリヤス工場に就職の2年目

に、大腸炎を患い倒れる。死線をさまよった時、キリスト教会を尋ね K.T 師に導かれ、66年、主キリストを、私の魂の救い主として信じて受洗。 69年、心身と

もに元気 をとりもどし結婚。10年間、古家具商をはじめ、骨董家具よりモデル家具を営み、支店3店まで拡張、大インフレの大波にあおられ、40歳の時に倒産。81

年、途方にくれて、絶望状況に落ちた時、結婚時にプレゼントされた、“ミレーの晩鐘”の画を見た瞬間、農夫婦が、1日の仕事を終え、天の神様に感謝のお祈りし

ている姿を見て、「こ れだ!!」。と決心し、都心より田舎へ移転。自然が大好きな(私達家族5人)は、サンパウロ市より170Kのコロニヤ・ピニャール(日系移

住地)へ日語教師の職を得、移転。日語教師4年間の中、その所が蜜蜂に恵まれた里でした。余暇に養蜂を開始。83年、蜜蜂の巣の中に天然の抗生物質“プロポリ

ス”の存在に気づきました。1984年、早速、英文・仏文、のプロポリス資料を研究し、病弱である自分自身に試し、健康回復に効力のある事を確信致しまし

た。1985年、日本にて、世界養蜂会議でプロポリスが話題になり、健康回復にすぐれた健康食である事が評判となり、人気上昇しました。当初、少量しか獲得出

来ませんでしたがブラジル国内で販売しました。そのうち、日本からの買手が来られ資金面の援助を受けました。

1986年、ピラール・ド・スールより70Kの高原地帯にて、天然の蜜蜂の巣の中に、茶緑色のプロポリス(学名:BACCHARIS DRACUN CULIFOLIA系)を発見させて

いただきました。微量しか取れない、この種は香りが好ましく、自分自身に試して、良い効き目を確認しました。この種のプロポリスを求めて、年月をかけてブラ

ジル各州を探索しました。その結果、この茶緑プロポリスはサンパウロ州の一地域、パラナ州の一地域、ミナス州の一地域等で採集可能である事を再発見させてい

ただきました。中でもミナス州産は、分析の結果からも、フラボノイドが豊富であり、有効成分であるアルテピリン-Cピノセンプリン、カエンプフェロール、クリシ

ン、クマリコ等の含有量が豊かである事も明確となりました。1988年、当時、少数しか存在しなかった養蜂家達に、この種の茶緑系

(BACCHARIS DRACUN CULIFOLIA系)プロポリスの採集を指導し、早速、日本養蜂新聞社のK.F 氏にも、手紙で報告いたしました。K.F氏は、私とは一面識もなかった

のに、旅費を送金してくださり、故郷日本へ、28年ぶりにプロポリス原塊30Kgを手みやげにもって帰国。親戚、一同と、涙の再会の喜びを、満喫させていただき

ました。養蜂開始より今年で23年目となり、以来、この茶緑プロポリス(BACCHARIS DRACUN CULIFOLIA系)を発見させて頂いた事と、この種のプロポリ

スに全力投球させて頂いた事が、私どもの会社の発展となりました。又、日本のプロポリス取り扱い会社の方々と共に今日まで発展させて頂きました。近年では、漢

方薬の国、中国等にまで、原料及び製品を輸出させて頂き、ただただ、天の主に、この恵みを心より感謝させて頂いております。


 

大都サンパウロより170Kmのコロニヤ・ピニャール地域にて養蜂開始当時